J1からJ3に落ちたチームはある?降格した全クラブの歴史と背景

サッカーJリーグには、成績次第で下部リーグへ降格する仕組みがあります。

その中でも「J1からJ3に落ちたチーム」はJリーグ創設からわずか「3チームのみ」です。

本記事では、Jリーグ創設から現在まででJ1(1部)からJ3(3部)への降格を経験した全クラブについて、初心者にも分かりやすく解説します。

いつ・どのようにJ1からJ2、そしてJ3に降格したのか、その主な原因や降格後のエピソード、クラブやサポーターの動きなどを時系列でまとめます。

Jリーグのリーグ構造と降格制度

Jリーグは現在、J1・J2・J3の3部構成です。

1993年にJリーグ(当時1部)のシーズンがスタートし、参加10クラブ(いわゆる「オリジナル10」)で発足しました。

その後、1999年にJ2(2部)が創設され、さらに2014年にJ3(3部)が創設されて、現在で約60クラブがJ1~J3の三層に所属しています。

J1が日本のトップリーグ、J2がその下位リーグ、J3が3番目のリーグにあたり、それぞれ毎年熱い優勝・昇格争いと残留・降格争いが繰り広げられます。

降格制度はリーグ間で成績下位のクラブが下部リーグへ降り、上位のクラブが上位リーグへ昇格する仕組みです。

近年の基本ルールでは、J1では下位2~3クラブがJ2へ自動降格し、J2では下位2クラブがJ3へ自動降格します(入れ替え戦や変則的な年もありますが概ねこの形です)。同様にJ2上位2クラブがJ1昇格、J3上位2クラブがJ2昇格となります​。

ただし昇格にはクラブライセンス(施設や財政面の基準)の交付要件があります。例えばJ3で上位に入ってもJ2ライセンスがないクラブは昇格できず、その場合はJ2から降格するクラブ数が調整されます。

このように、毎年各カテゴリで成績に応じてクラブの所属リーグが入れ替わる仕組みになっています。

J1からJ3に落ちたチーム

J1からJ2、J2からJ3へは毎年複数クラブが降格します。しかし「J1からJ3まで降格した」つまりトップリーグから3部リーグまで転落したケースは稀有です。Jリーグ発足以降でこの経験があるクラブは2025年までにわずか3クラブしかありません。

それが以下の3クラブです。

  • 大分トリニータ – 2009年にJ1から降格、2015年にJ2からJ3へ降格(史上初の事例)
  • 松本山雅FC – 2017年にJ1から降格、2021年にJ2からJ3へ降格(史上2例目)
  • 大宮アルディージャ – 2017年にJ1から降格、2023年にJ2からJ3へ降格(史上3例目)

それぞれのクラブがどのようにしてJ1からJ3まで落ちてしまったのか、次章から詳しく見ていきましょう。

J1からJ3に降格した最初のクラブ「大分トリニータ」

所属リーグ
(階層)
最終順位 主な出来事
1999 J2 3位 Jリーグ参入初年度で昇格争いに加わる
2002 J2 1位 J2優勝で翌2003年から初のJ1昇格
2003–2009 J1 7季連続J1在籍。
2008年ナビスコカップ優勝/2009年17位でJ2降格
2010–2012 J2 6位 J1昇格POを制し2013年J1復帰
2013 J1 18位 最下位で再びJ2へ降格
2014–2015 J2 21位 町田との入れ替え戦に連敗し、J1経験クラブ初のJ3降格決定
2016 J3 1位 J3初優勝。わずか1年でJ2復帰
2017–2018 J2 2位 J2準優勝で2019年から再びJ1昇格
2019–2021 J1 9位
18位
昇格初年度は健闘も、2021年最下位でJ2降格
2022– J2 J1再復帰を目指し再建中

大分トリニータの選手とサポーター(2018年、J1昇格決定時)。(※写真は昇格時のもの。降格時ではありません)

大分トリニータは、Jリーグ史上初めてJ1からJ3に降格したクラブです。

大分県を本拠地とするこのクラブは、もともと旧JFLから1999年のJ2創設時に加盟し、2002年にJ2優勝して2003年に初のJ1昇格を果たしました。

その後しばらくJ1に定着し、2008年にはナビスコカップ(リーグカップ)優勝という輝かしい成果も収めました。しかし2009年に経営危機に陥ります。

主力スポンサーの撤退などで深刻な財政難となり、大幅な戦力ダウンは避けられず成績も低迷しました​。結局2009年シーズンにJ1最下位となり、翌2010年からJ2へ降格します。

J2に降格後、大分は財政再建とチーム再建に努めました。2011年頃にはクラブ消滅の危機も囁かれましたが、地域やサポーターの支えでクラブ存続を果たします。

2012年シーズン、大分はJ2で6位に滑り込み、J1昇格プレーオフを勝ち抜いて奇跡のJ1復帰(2013年シーズン)を果たしました。ところが戦力差は大きく、2013年は再びJ1最下位に沈み1年でJ2降格してしまいます。

さらなる悲劇はその後訪れました。J2に戻った2014~2015年の大分は低迷が続き、2015年シーズンにはJ2で下位に沈みます。

そしてJ2・J3入れ替え戦でJ3所属の町田ゼルビアに敗れてしまい、2015年末に大分のJ3降格が決定しました​。これは「J1経験クラブとして初のJ3降格」という歴史的な出来事で、J1在籍からわずか3年でJ3まで落ちたことになります​。

降格の主な要因は、やはり2009年の財政問題に端を発するチーム力低下でした。経営破綻寸前で選手を大量放出せざるを得なかった影響が長引き、J2でも勝てないシーズンが続いたのです。

またクラブフロントの迷走(監督交代の失敗など)も重なり、負のスパイラルに陥りました。

降格後の大分は、J3に落ちた2016年シーズンに心機一転、片野坂知宏監督の下で戦術を磨きJ3優勝&1年でJ2復帰を果たします。

さらに勢いに乗り、2018年にはJ2で2位となってJ1昇格を決め、2019年から再びJ1の舞台に返り咲きました。昇格初年度の2019年はJ1で躍進し9位と健闘します。その後2021年にJ1最下位となり降格する浮き沈みはあったものの、クラブは見事に経営危機と降格の谷底から這い上がりました。

サポーターも低迷期にスタジアムに足を運び続け、「トリニータブルー」の大旗を振って支えました。大分のケースは経営破綻による戦力崩壊→二度の降格という苦難の歴史ですが、地域の支援と適切な指揮官招聘で復活を遂げた点は特筆すべきエピソードです。

わずか2年でJ1からJ3へ急転落したクラブ「松本山雅FC」

所属リーグ
(階層)
最終順位 主な出来事
2012 J2 12位 JFLから昇格しクラブ史上初のJ2シーズン
2014 J2 2位 反町康治監督の下で躍進し、翌2015年から初のJ1昇格
2015 J1 16位 残留ラインに届かず1年でJ2降格
2018 J2 1位 J2優勝。堅守を武器に再びJ1昇格決定
2019 J1 17位 勝ち点不足で再び1年でJ2降格
2021 J2 21位 コロナ特例で4クラブ降格枠の年。相模原戦引き分けでJ3降格決定
2022 J3 10位 初のJ3シーズン。昇格争いに絡めず中位に終わる
2023 J3 9位 名波体制2年目。戦力整備を進めるも再昇格ならず

長野県を本拠とする松本山雅FCは、ミラクル昇格で知られたクラブですが、その後に急転直下のJ3降格を経験しました。

松本山雅はJFL(当時の実質3部リーグ)から頭角を現し、2012年にJ2へ初昇格します。熱狂的なサポーターと反町康治監督の指揮の下で力をつけ、2014年にJ2で2位となりクラブ史上初のJ1昇格(2015年シーズン)を果たしました。

初挑戦のJ1では奮闘しましたがやはり他クラブとの壁は厚く、2015年シーズンにJ1最下位となり1年でJ2降格します。

その後、反町監督体制を継続して戦力を整え、2018年にJ2優勝。再び2019年にJ1昇格を勝ち取りました。しかしこの2019年のJ1でも最下位に終わり、またもや1年でJ2降格します。

問題はここからです。主力監督であった反町氏が退任し、クラブは次の方針を模索しますが、結果的にチームは低迷へ向かいました。

2021年シーズン、J2の松本山雅は開幕から不振が続き、シーズン途中で柴田峡監督を解任し名波浩監督を招へいします。

しかし流れを変えるには至らず、終盤戦でも勝ち切れない試合が続きました。

そして運命の2021年11月28日、残留のためには「絶対に勝利」が必要だったSC相模原戦で引き分けてしまいます。同日、残留を争っていたツエーゲン金沢が劇的な勝利を収めたため、松本山雅のJ3降格が決定的となりました​。

J1を戦っていた2019年からわずか2年でJ3まで落ちたことになり、その衝撃的な転落劇は大きな話題となりました​。

松本山雅がここまで凋落した主な要因としては、クラブの戦略ミスとチーム迷走が挙げられます。

まず、長年チームを率いた反町監督退任後のビジョンが定まらず、暫定監督だった柴田氏を続投させたものの人選が後手に回りました。

フロントは新監督探しに難航し、現場も混乱した状態でシーズンに入ってしまいます。その結果、チームは開幕から低空飛行となりました。またシーズン中に起きた不運な出来事として、選手へのラフプレー事件とその後のクラブ対応への批判など、フロントとサポーターの信頼関係悪化も指摘されています​。さらに成績不振でメンタルも崩れ、負け癖から抜け出せないまま終盤を迎えました。

2021年のJ2リーグは特例で4クラブが降格するレギュレーション(新型コロナ禍によるチーム数調整のため)だったことも、松本にとっては痛手でした。通常年なら下位2~3チームで済む降格枠が4チームもあり、松本は残り1節を残して20位以下が確定(最終的に21位)という状況でした。

「4チーム降格だから不運」という声もありますが、シーズンを通して見れば松本山雅は紛れもなくその年のJ2では不振に終わり、単なる不運では片付けられない結果でした​。

降格後の松本山雅は、2022年に初めてJ3リーグで戦うことになりました。J3でも苦戦が続き、かつての勢いを取り戻せずに中位に沈み、J2復帰はならずに終わります(※2022年はJ3で10位)。

クラブは経営規模こそJ2ではトップクラス(2020年の営業収入約19億円はJ2で6位、人件費も約10億円で5位の規模)でしたが、それでもJ3に落ちてしまった異常事態でした。

仕切り直した2023年もJ3で優勝争いに加われず、チーム再建の途上にあります。松本山雅は地域密着で「奇跡のクラブ」と呼ばれ躍進してきましたが、その反動とも言える劇的な降格はクラブに大きな教訓を残しました。サポーターは依然として熱く、J3の舞台でも平均観客動員はトップクラスを維持しています。

今後、再びクラブとファンが一丸となって這い上がれるか注目されています。

J1からJ3へ降格した3つ目のクラブ「大宮アルディージャ」

所属リーグ
(階層)
最終順位 主な出来事
2004 J2 2位 クラブ史上初のJ1昇格決定(翌2005年からJ1へ)
2005–2013 J1 9季連続J1在籍。専用スタジアム拡充で「堅実経営の優等生」と呼ばれる
2014 J1 16位 残留争いに敗れ初めてJ2降格
2015 J2 1位 J2優勝で即J1昇格。エース・ムルジャ19得点
2016 J1 5位 家長昭博らが躍動しクラブ史上最高順位
2017 J1 18位 度重なる監督交代で最下位。再びJ2降格
2018 J2 5位 昇格PO敗退。J1復帰逃す
2019 J2 3位 自動昇格届かずPO敗退。昇格をあと一歩で逃す
2020 J2 15位 コロナ禍の特例無降格シーズンも下位。長期低迷の始まり
2021 J2 16位 残留争い。霜田→相馬監督体制へ切り替えも浮上できず
2022 J2 19位 クラブ史上ワースト順位を更新。降格一歩手前
2023 J2 21位 15戦未勝利など泥沼 → クラブ史上初のJ3降格決定
2024– J3 「1年でのJ2復帰」を掲げ再建中。専用練習場や資金面はJ2上位規模

首都圏のさいたま市をホームとする大宮アルディージャも、2023年にクラブ史上初のJ3降格という苦杯を舐めました​。

大宮は元々Jリーグ開幕時からのクラブではなく、旧JFLを経て2004年にJ2で2位となり翌2005年から初めてJ1昇格を果たしたチームです。

それでも2005年以降は実力を蓄え、10年連続でJ1に在籍しました​。堅実な経営と安定した成績で知られ、2016年シーズンには家長昭博らの活躍でJ1で過去最高の5位に躍進したこともあります。

しかし翌2017年に成績不振に陥り、J1最下位でJ2降格してしまいます​。

2018年から大宮は再びJ2で戦うことになりました。J2では毎年J1昇格候補に挙がる戦力を保有し、実際2018年・2019年は昇格プレーオフまで進出するなどJ1復帰に迫りました。しかしあと一歩届かないシーズンが続くと、チーム状況は徐々に悪化します。

2020年はJ2で15位、2021年も16位と低迷し、J2残留争いに巻き込まれる立場に変わっていきました。クラブは監督交代を繰り返しますが抜本的な改革には至らず、2022年にはJ2で19位と降格一歩手前まで沈みます。

迎えた2023年シーズンも調子は上向かず、開幕からアウェー戦の連敗やクラブワースト記録の15試合未勝利を喫するなど泥沼にはまってしまいました。

5月には相馬直樹監督を解任し原崎政人監督(当時ヘッドコーチ)に交代、新戦力の起用などテコ入れを図りシーズン終盤に4連勝する意地を見せましたが及ばず、最終順位はJ2で21位となりました。

大宮はJ2で21位となったことで、自動的にJ3降格圏となります。ただし通常であればJ3上位2チームがJ2ライセンスを持っている場合に降格確定です。2023年はJ3上位のうちFC大阪がJ2ライセンス不交付だったため一縷の望みもありましたが、結果的にその条件は成立せず、大宮のJ3降格が正式に決定しました。

こうしてクラブ創設以来初めて、2024年は大宮がJ3リーグで戦うことになります。

大宮アルディージャがJ3まで降格した原因としては、チームの慢心とフロントの迷走が指摘されています。

練習環境や施設はJ1上位レベルで、予算規模もJ2ではトップクラスという「恵まれた環境」にありながら​、それに甘えて危機感を欠いていたのではないかという声です。

実際、2021年に残留争いに陥った際、当時の霜田正浩監督も「うちは残留争いするチームじゃない、という空気が内部にあった」と指摘し、チーム内の慢心を戒めていました。

また親会社主導の体制でフロント人事や編成方針が安定せず、監督も短期間で交代が相次ぐなどマネジメントの不備が続いたことも大きいです​。戦術やチームスタイルも場当たり的に変わり、選手たちも自信を失っていきました。

サポーターからもフロントへの不満が噴出し、2023年の最終戦後には「フロントやめろ」といった辛辣な横断幕が掲げられ問題視される事態も起きました。クラブは対応に追われ、関与したサポーターを処分するなど、現場以外でも混乱が見られました。

こうした負の連鎖の末に迎えたJ3降格は、クラブにとって「異常事態」とも言える衝撃でした。10年間もJ1で戦い施設や資産が充実しているクラブが3部リーグに落ちるのは誰もが想定外で、まさにクラブ史に残る屈辱的な降格となりました​。

降格後の大宮は、新シーズンに向けてチーム立て直しを図っています。クラブは公式サイトで「1年でのJ2復帰を絶対条件とする」旨の声明を出し、強い決意で2024年シーズンに挑む構えです。

幸い、熱心なファン・サポーターは依然クラブを見放しておらず、J3降格が決まった試合でも最後まで熱い声援を送り続けました​。ホームスタジアムNACK5には専用練習場やクラブハウスも併設され、ハード面はJ2以上に充実しています​。

こうした恵まれた環境を生かしつつ、慢心を捨てて戦えば十分に復活は可能でしょう。現に先行する大分は財政破綻から復活し、松本も依然J2復帰を虎視眈々と狙っています。大宮アルディージャが再び這い上がり、J1の舞台に戻ってくる日をファンは信じて待っています。

まとめ

以上、「J1からJ3に落ちたチーム」として大分トリニータ、松本山雅FC、大宮アルディージャの3クラブの降格劇を見てきました。

それぞれ降格に至った背景は様々でしたが、「成績不振+クラブ運営上の問題」が複合していた点は共通しています。

大分は経営破綻による戦力崩壊、松本は指揮系統の迷走と急激な失速、大宮は恵まれた環境ゆえの慢心とマネジメント不在――いずれもクラブの土台が揺らいだときに成績も急降下し、J3まで落ち込んでしまいました。

しかし、降格は終わりではなく再出発でもあります。

大分トリニータはJ3降格というどん底から見事に立ち直り、再びJ1の舞台で戦いました。その姿は他の降格クラブに勇気を与えています。松本山雅FCも依然として地域から厚い支援を受けており、「もう一度J1へ」というスローガンの下でチーム改革を進めています。大宮アルディージャも初のJ3降格という屈辱を胸に刻み、クラブ体制の刷新やチーム強化に乗り出しています。

サポーターはいずれのクラブも温かく、苦しい時にもスタンドで声援を送り続けています。その支えこそがクラブ再建の原動力となるでしょう。

Jリーグは昇格・降格によって戦いの舞台が変わるダイナミックなリーグです。かつてJ1で輝いたクラブがJ3で奮闘する姿もあれば、下部リーグから這い上がって再びトップリーグに挑むドラマも生まれます。

今回取り上げたJ1からJ3に落ちたチームたちの物語は、サッカーの残酷さと同時に再起のチャンスが平等に与えられていることも教えてくれます。降格の悔しさをバネに、彼らが再び栄光をつかむ日を期待しつつ、これからもJリーグの昇格・降格の行方に注目していきましょう。